権藤博ごんどうひろし
元プロ野球選手、監督、解説者[日本]
1938年 12月2日 生 (満85歳)
権藤 博(ごんどう ひろし、1938年12月2日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元プロ野球選手(投手・内野手、右投右打)、野球解説者・野球評論家。
次女は「株式会社SONOKO(旧:トキノ)」の社長を務めた権藤嘉江子。
経歴=
プロ入り前=
鳥栖高校では内野手だったが、投手不在となり投手に転向。
3年次の1956年には夏の甲子園佐賀大会準決勝に進出するが、佐賀商に惜敗。
甲子園には行けなかったものの、その活躍から西鉄にスカウトされたが、その後に受けたブリヂストンタイヤのテストに合格。
西鉄のテストで三原脩監督と川崎徳次の前で投げたことが自信になり、ブリヂストンのテストでは誰もバットにかすらなかった。
先にブリヂストンから合格通知が届いたことと、当時はまだ体重62kgと体が細かったことで西鉄を断り、卒業後の1957年に入社。
同社の久留米工場用度課に配属され、8時10分始業で16時10分終業のなか、野球部は14時に上がって練習だった。
当時の福岡は社会人野球が盛んで、近くには日鉄二瀬や東洋高圧大牟田、北九州地区には八幡製鐵、門司鉄道局と全国に名を馳せる名門がひしめいていたが、ブリヂストンは同好会のようなチームで、練習は個々の自主性に委ねられていた。
華奢であった権藤は体力作りに勤しみ、腹筋、背筋にランニング、球場近くにある筑後川の川べりを毎日走った。
徐々に体が強くなり、球も速くなったが、もとより身体能力は抜群で、他分野からも高い評 ……
権藤博さんが誕生してから、85年と333日が経過しました。(31379日)