生年月日データベース

江藤新平えとうしんぺい

佐賀藩士、司法卿[日本]

(「佐賀の乱」を起こし最期は処刑される、天保5年2月9日生)

1834年 3月18日

1874年 4月13日 死去処刑享年41歳
江藤新平 - ウィキペディアより引用

江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。
幼名は恒太郎、又蔵。
諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。
朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。
位階は贈正四位。
東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議、佐賀征韓党首を歴任。
立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。
また、司法制度・学制・警察制度の推進と共に「四民平等」を説き浸透させた。
概要= 天保5年(1834年)、佐賀藩士・江藤家の第21代として生まれ、嘉永2年(1849年)藩校・弘道館に入学。
文久2年(1862年)に脱藩上京して尊攘勢力に接近するも失望し帰藩、永蟄居となる。
慶応3年(1867年)幕末の激変で許され出京して、明治元年(1868年)に新政府より東征大総督府軍監・徴士に任命され、江戸鎮台判事、鎮将府判事、会計官判事として江戸の民政行政に携わり、江戸奠都論(東京奠都)を建議する。
明治2年(1869年)に帰藩し佐賀藩・権大参事として藩政改革を指導したのち、太政官中弁として政府に復帰した。
翌年、制度取調専務となり新政府の官制改革案の策定に指導的役割を果たし、民法会議を主宰 ……

江藤新平さんが誕生してから、190年と200日が経過しました。(69598日)
亡くなってから、150年と174日が経ちました。(54962日)
14636日間 生きました。