本多忠勝ほんだただかつ
戦国武将、上総大多喜藩・伊勢桑名藩 初代藩主[日本]
(徳川四天王のひとり、天文17年2月8日生)
(ユリウス暦) 1548年 3月17日 生
1610年 12月3日 死去享年63歳

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
徳川氏の家臣。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。
忠勝系本多家宗家初代。
本姓は藤原氏。
通称は平八郎(へいはちろう)、官途は従五位下、中務大輔である。
なお、忠勝は発給文書で「中務少輔」と併用している事例が多く、その併用の理由も不明で、ただ単に官途に対して無頓着だったと考えられる。
後世、徳川三傑・徳川四天王・徳川十六神将として崇められた。
生涯=
本多忠勝誕生地石碑(愛知県岡崎市西蔵前町)
誕生と父の死=
本多忠勝は天文17年(1548年)、兼通流藤原氏で三河岡崎松平氏(後の徳川氏)の家臣・本多忠高の嫡男として誕生した。
幼名は鍋之助とされている。
生まれた場所は、現在の愛知県岡崎市西蔵前町とされており、その地には誕生碑が建てられている。
忠勝の生まれた翌天文18年(1549年)、岡崎松平氏を支援する駿河・遠江の大名・今川義元は右腕・太原雪斎の率いる軍勢を三河方面へ送り、尾張の織田信秀の長男・信広の籠る安城城へと攻めさせた。
この時、父・忠高も城攻めに参戦したものの攻めあぐねた末、討死した。
忠勝は乳児にして父を失ったのである。
この後、彼を育て養ったのは叔父の忠真であった。
若き日の姿=
永禄3年(1560年)、忠勝はこの年に松平元康(後の徳川家康。
以後、家康で統一)に仕えはじめたとされ、この年に起き ……
亡くなってから、414年と264日が経ちました。(151478日)