細川忠興ほそかわただおき
戦国大名、小倉藩初代藩主[日本]
(永禄6年11月13日生)
(ユリウス暦) 1563年 11月28日 生
1646年 1月18日 死去享年83歳
細川 忠興(ほそかわ ただおき) / 長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。
肥後細川家初代。
佐々木氏の支流の大原氏流細川氏の出身である。
正室は明智光秀の娘の玉子(通称細川ガラシャ)。
室町幕府15代将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。
足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。
また父の幽斎と同じく、教養人・茶人の細川三斎(ほそかわ さんさい)としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。
茶道の流派三斎流の開祖である。
生涯=
幼少期=
永禄6年(1563年)11月13日、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として京都にて誕生。
母は沼田光兼の女の麝香(のちの光寿院)。
『寛政重修諸家譜』などによると生まれた直後に細川奥州家出身の外様衆・細川輝経の養子となり名跡を継いだとされるが、同時代史料からは確認が取れず、肥後細川氏に奥州家関連の文書も伝来していない。
また忠興の幼名は藤孝と同じ熊千代である。
永禄の変の後、藤孝や明智光秀らは尾張国・美濃国の大名の織田信長を頼って義輝の弟の義昭を15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。
忠興は信長の嫡男の信忠に仕 ……
亡くなってから、378年と305日が経ちました。(138370日)