石田三成いしだみつなり
戦国大名[日本]
(永禄3年生)
1560年 生
1600年 11月6日 死去斬首享年41歳
石田三成の辞世 |
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり |

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。
豊臣秀吉に仕え、行政・外交・検地などに卓越した能力を発揮し、豊臣政権の中枢を担った五奉行の一人である。
公正無私な性格と信義を重んじる姿勢から、忠臣として知られる。
秀吉の死後は徳川家康の台頭に対抗して諸大名とともに西軍を組織し、関ヶ原の戦いで敗れて京都六条河原で処刑されたが、その生き様は後世まで語り継がれている。
なお、関ヶ原の戦いで西軍を率いた時、三成は41歳であった。
後世に描かれた(存命中に描かれたものではない)杉山家伝来の肖像画ではより年長の印象を受けるが、実際は若年であった。
生涯=
石田三成出生地碑と三成像(滋賀県長浜市石田町)
出自と幼少期=
石田三成は、永禄3年(1560年)、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)にて、石田正継の三男として誕生した。
幼名は佐吉。
三成の生まれた当時、石田村のある坂田郡北部は、東浅井郡の小谷城を本拠とする浅井氏の勢力圏に属していた。
この年は浅井長政が父・久政から家督を継承し、勢力の拡大を図っていた時期である。
さらに同年、尾張国の織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を破り、西上への契機を掴んでいた転機でもあった。
天正2年(1574年)ごろに三成は、父・石田正継、次男・正澄とともに、織田信長に仕えていた羽柴秀吉に仕官したとされる(長男・弥治郎は早くに亡くなっている)。
三成自 ……
亡くなってから、424年と188日が経ちました。(155054日)