生年月日データベース

織田秀信おだひでのぶ

戦国大名[日本]

(幼名・三法師、織田信忠 嫡男、天正8年生)

1580年 生

1605年 7月13日 死去享年26歳
織田秀信 - ウィキペディアより引用

織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名(洗礼名はペドロ)。
織田信忠の嫡男であり、織田信長の実孫でもある岐阜城の城主。
幼名は三法師(さんぼうし)。
天正10年(1582年)の本能寺の変で父・信忠と祖父・信長が横死した後、清洲会議において3歳で織田弾正忠家の家督を相続する。
しかし、豊臣秀吉が台頭すると主従関係が逆転して臣従し、元服時には秀吉から偏諱(「秀」の字)を賜って「秀信」と名乗った。
豊臣政権下では羽柴姓を贈られ、官位は正三位・権中納言に昇り、岐阜中納言と称された。
美濃国岐阜城主としては、楽市楽座の制札下付や鵜飼いの保護、鏡島湊の整備など祖父・信長の政策を踏襲し、民生や水運の発展に努めた。
信仰面ではキリスト教に入信して岐阜城下に教会や司祭館を建設したほか、崇福寺や円徳寺など既存の仏教寺社も深く保護した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成からの勧誘を受けて西軍に参戦。
米野の戦いおよび岐阜城攻防戦で福島正則や池田輝政率いる東軍と激戦を展開したが敗北し、降伏。
戦後は福島正則の助命嘆願により死を免れたものの、改易となって高野山へ配流され、慶長10年(1605年)に26歳で死去。
これにより織田弾正忠家の嫡流は断絶する事になった。

亡くなってから、421年と101日が経ちました。(153871日)

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