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石川数正いしかわかずまさ

戦国大名[日本]

(天文2年生)

1533年

没年不詳
石川数正 - ウィキペディアより引用

石川 数正(いしかわ かずまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
徳川家康の片腕として酒井忠次とともに活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に出奔して豊臣秀吉に臣従した。
深志城主10万石となり、信濃松本藩の初代藩主とみなすことが通説となっている。
生涯= 出自= 家系は河内源氏の八幡太郎義家の六男・陸奥六郎義時が河内国壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)の石川荘を相伝し、義時の三男の義基が石川源氏・石川氏と称し、後に三河国に下った石川氏の与党と自称した。
天文2年(1533年)、石川右馬允康正の子(異説に石川右近正勝の子)として三河国で誕生した。
石川清兼は祖父、石川家成は叔父、石川康通は従弟にあたる。
家康の懐刀= 徳川家康が駿河国の大名・今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えた。
永禄3年(1560年)、義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗死し松平元康(家康)が独立すると、数正は今川氏真と交渉し、当時今川氏の人質であった家康の嫡男・信康と駿府に留め置かれていた家康の正室・築山殿を取り戻した。
永禄4年(1561年)、家康が織田信長と石ヶ瀬で紛争を起こした際には、先鋒を務めて活躍した。
永禄5年(1562年)、織田信長と交渉を行い、清洲同盟成立に大きく貢献した。
永禄6年(1563年)、三河一向一揆が起こると、父・康正は家康を裏切ったとみられるが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くした。
石川宗 ……

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