犬養毅いぬかいつよし
政治家、内閣総理大臣、立憲政友会総裁[日本]
(安政2年4月20日生)
1855年 6月4日 生
1932年 5月15日 死去射殺享年77歳
犬養毅の最期の言葉 |
靴ぐらい脱いだらどうだ |
犬養 毅(いぬかい つよし、旧字体:犬養󠄁 毅、1855年6月4日〈安政2年4月20日〉- 1932年〈昭和7年〉5月15日)は、日本の政治家。
位階は正二位。
勲等は勲一等。
通称は仙次郎。
号は木堂、子遠。
中国進歩党代表者、立憲国民党総理、革新倶楽部代表者、立憲政友会総裁(第6代)、文部大臣(第13・31代)、逓信大臣(第27・29代)、内閣総理大臣(第29代)、外務大臣(第45代)、内務大臣(第50代)などを歴任した。
五・一五事件で暗殺される。
生涯=
生い立ち=
犬養の生家
安政2年4月20日(1855年6月4日)、備中国賀陽郡川入村(庭瀬村、庭瀬町、吉備町を経て現・岡山県岡山市北区川入)で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男として生まれる(のちに犬養と改姓)。
父は水荘と称した備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士である。
元々、犬飼家は庭瀬藩から名字帯刀を許される家格であったという。
毅が13歳のときに父が死去。
生家は現存しており、隣接して犬養木堂記念館が設けられている。
同藩の経世学者楠之蔚の下で漢籍を修めた後、1876年(明治9年)に上京して慶應義塾に入学。
一時、共慣義塾(渡辺洪基と浜尾新主宰の塾)に通い、また漢学塾・二松學舍では三島中洲に漢学を学んだ。
慶應義塾在学中の1877年3月に、『郵便報知新聞』(のちの『報知新聞』)の記者として西南戦争に従軍し、「戦地直報」の記事が話題を呼んだ(抜刀隊が「戊辰の仇!」と叫びながら突撃 ……
犬養毅さんが誕生してから、169年と170日が経過しました。(61897日)
亡くなってから、92年と190日が経ちました。(33793日)
28104日間 生きました。