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足利義材あしかがよしき

室町幕府第10代将軍[日本]

(のちに将軍職に復帰し名を義稙と改める、文正元年7月30日生)

(ユリウス暦) 1466年 9月9日

1523年 4月 死去享年68歳
足利義材 - ウィキペディアより引用

足利 義稙(あしかが よしたね)は、室町幕府の第10代征夷大将軍。
父は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視。
母は裏松重政の娘・日野良子(日野富子の妹)。
初名は義材(よしき)。
将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。
将軍在職は2つの時期に分かれており、1度目は延徳2年7月5日(1490年7月22日)から明応3年12月27日(1495年1月23日)まで在職した後、約13年半の逃亡生活を送る。
2度目は永正5年7月1日(1508年7月28日)から大永元年12月25日(1522年1月22日)まで在職した。
鎌倉・室町・江戸の3幕府の将軍の中で、将軍職を再任されたのは義稙のみである。
略歴= 文明9年(1477年)、応仁の乱終結後、敗北した西軍側であった父・義視に従って京を出て美濃国に下向した。
長享3年(1489年)、従兄で9代将軍の足利義尚が早世したため後継者として上洛し、義尚の父で8代将軍足利義政の死後、第10代将軍に就任した。
就任後は元々義稙の将軍就任に反対していた管領・細川政元と対立するようになり、明応2年(1493年)将軍職を廃され幽閉されたが(明応の政変)、脱出して越中国、ついで越前国へ逃れ、諸大名の軍事力を動員して京都回復・将軍復職をめざして逃亡生活を送った。
周防国の大内義興の支援を得て、永正5年(1508年)に京都を占領、将軍職 ……

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