大内義興おおうちよしおき
戦国大名[日本]
(文明9年2月15日生)
(ユリウス暦) 1477年 4月7日 生
(ユリウス暦) 1529年 1月29日 死去享年52歳
大内 義興(おおうち よしおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての周防(山口)の戦国大名・ 公卿 。
周防の在庁官人・大内氏の第15代当主。
父は周防守護で大内氏の第14代当主・大内政弘。
弟(一説に庶兄とも)に大内高弘(隆弘とも、初めは出家して大護院尊光)がいる。
正室は長門守護代・内藤弘矩の娘。
子に義隆(第16代当主)、娘(大友義鑑正室、後に大友義鎮(宗麟)や大内義長(第17代当主)がこの間に生まれる)。
室町幕府の管領代となって将軍の後見人となり、周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ねた。
生涯=
家督相続と内訌=
文明9年(1477年)、大内氏の第14代当主・大内政弘の子として生まれる。
幼名は亀童丸。
長享2年1月30日(1488年3月13日)に京都にて元服し、将軍・足利義尚から「義」の字を許されて「義興」の名を与えられた。
明応元年(1492年)、父の命令で六角高頼討伐(長享・延徳の乱)に参戦する。
ところが、その最中の明応2年(1493年)に管領細川政元が将軍足利義材を幽閉する明応の政変が発生する。
義興は兵を摂津国の兵庫に引き上げたまま事態の推移を見守っただけであった。
この政変に関連して、細川政元派の武田元信の配下によって当時京都に滞在していた義興の妹が誘拐される事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月1日条)や父・政弘が義興の側近に切腹を命じる事件(『大乗院寺社雑事記』明応2年8月4日 ……