生年月日データベース

大内義隆おおうちよしたか

守護大名[日本]

(永正4年11月15日生)

(ユリウス暦) 1507年 12月18日

(ユリウス暦) 1551年 9月30日 死去自害享年45歳
大内義隆 - ウィキペディアより引用

大内 義隆(おおうち よしたか)は、戦国時代の武将、守護大名・戦国大名・公卿。
周防国の在庁官人・大内氏の第16代当主 。
第15代当主・大内義興の嫡男。
母は正室の内藤弘矩の娘。
周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めた。
官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従。
義隆の時代には領土的に全盛期を迎えるとともに大内文化が爛熟した。
しかし、文治政治に不満を抱いた家臣の陶晴賢に謀反を起こされ、義隆と一族は自害した。
生涯= 出生から少年期まで= 永正4年(1507年)11月15日、周防・長門・石見・豊前4か国の太守である大内氏の第15代当主・大内義興の嫡子として大内氏館で生まれる。
母は長門守護代の内藤弘矩の娘である。
幼名は亀童丸(きどうまる)というが、これは父や祖父の政弘ら歴代当主の名乗ったものである。
義隆は幼少時から嫡子としての地位を明確にされ、同時に大内家で歴代に渡り家督相続時に発生した内紛を予防するために名乗らされていた。
義隆は幼児期は乳母や多くの女に囲まれて成長した。
少年期になると介殿様と呼ばれたが、これは周防介の略であり、大内家当主の地位として世襲されたものであり、義隆が嫡子として扱われていた証左である。
なお、義隆が周防介になった年は明確ではないが、永正17年(1520年)の時点で義隆を介殿様と記していることから(『高嶺太神宮伝記』)、この頃に周防介に叙任されたと考えられている。
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