生年月日データベース

尾崎紅葉おざきこうよう

作家[日本]

(慶応3年12月16日生)

1868年 1月10日

1903年 10月30日 死去胃がん享年36歳
尾崎紅葉の名言
人間よりは金のほうがはるかに頼りになりますよ。頼りにならんのは人の心です。
尾崎紅葉 - ウィキペディアより引用

尾崎 紅葉(おざき こうよう、1868年1月10日(慶応3年12月16日) - 1903年(明治36年)10月30日)は、日本の小説家。
本名、徳太郎。
「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」などの号も持つ。
帝国大学国文科中退。
1885年(明治18年)、山田美妙らと硯友社を設立し「我楽多文庫」を発刊。
『二人比丘尼色懺悔』で認められ、『伽羅枕』『多情多恨』などを書き、幸田露伴と並称され(紅露時代)、明治期の文壇に重きをなした。
泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。
俳人としても角田竹冷らとともに秋声会を興し、正岡子規と並んで新派と称された。
生涯[編集] 1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の芝大門)に生まれる。
父は根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。
もともと尾崎家は伊勢屋という商家であると推定されるが、惣蔵の代には既に廃業していたようである。
伊勢屋は呉服屋説と米問屋説があるが不明である。
尾崎家の家紋は丸に違い鷹の羽であるが、屋号には五鐶の中央に数字の三の記載のある紋が使われていたとの記録がある。
1872年(明治5年)、母と死別し、母方の祖父母荒木舜庵、せんの下で育てられる。
寺子屋・梅泉堂(梅泉学校、のち港区立桜川小、現在の港区立御成門小)を経て、府第二中学(すぐに府第一中と統合し府中学となる。
現在の日比谷高校)に進学。
一期生で、同級に ……

尾崎紅葉さんが誕生してから、156年と198日が経過しました。(57177日)
亡くなってから、120年と271日が経ちました。(44101日)
13076日間 生きました。