福地源一郎ふくちげんいちろう
幕臣、ジャーナリスト[日本]
(天保12年3月23日生)
1841年 5月13日 生
1906年 1月4日 死去享年66歳
福地 源一郎(ふくち げんいちろう、天保12年3月23日(1841年5月13日) - 明治39年(1906年)1月4日)は、日本の幕末の幕臣。
明治時代の政論家・劇作家・小説家。
幼名八十吉(やそきち)。
号星泓のち櫻癡(おうち、新字体:桜痴)、別号吾曹。
福地桜痴の名で知られる。
東京日日新聞社長、最晩年は衆議院議員。
「江湖新聞」発刊で筆禍を得、大蔵官僚を経て東京日日新聞社主筆・社長に就任。
当時の言論界・政界に大きな影響力を揮ったが、のち声望傾き、退社後は演劇改良運動に傾注して活歴劇を創始。
改修物、翻案物のほか時代物や世話物を創作して劇壇の第一人者となった。
生涯=
幕府時代=
留学生時代
天保12年(1841年)、長崎新石灰(しっくい)町(現在の長崎市油屋町)で長門国豊浦郡府中(現 山口県下関市)出身の儒医・岸田苟庵(福地苟庵)の息子として生まれた。
幼時から長川東洲について漢学を学び、15歳の時に長崎で阿蘭陀通詞・名村八右衛門のもとで蘭学を学ぶ。
安政4年(1857年)に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出た。
以後、2年間ほどイギリスの学問や英語を森山栄之助の下で学び、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することとなった。
万延元年(1860年)、御家人に取り立てられる。
文久元年(1861年)には柴田日向守に付いて通訳として文久遣欧使節に参加し、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与している。
また、同年に発生し ……
福地源一郎さんが誕生してから、183年と191日が経過しました。(67032日)
亡くなってから、118年と321日が経ちました。(43421日)
23611日間 生きました。