筑波雪子つくばゆきこ
女優[日本]
1906年 6月10日 生
1977年 6月6日 死去胃がん享年72歳
筑波 雪子(つくば ゆきこ、1906年6月10日 - 1977年6月6日または6月8日)は、日本の女優。
10代で映画にデビュー、サイレント映画時代のスターであった。
本名佐藤 ゆき子(さとう ゆきこ、旧姓)。
来歴・人物=
1906年(明治39年)6月10日、東京府荏原郡入新井村大字不入斗(現在の大田区大森北あたり)に生まれる。
若くして新橋の花柳界にいたが、その美貌から帝国劇場取締役福沢桃介の推薦により、城戸四郎に熱心な勧誘をされて映画女優に転身した。
16歳になる1922年(大正13年)に松竹蒲田撮影所に入社した。
サイレント映画初期の巨匠吉野二郎監督の『三日月次郎吉』に出演、同年12月1日に公開された。
吉野、そして島津保次郎監督作品に重用され、主役の座を獲得してゆく。
1926年1月の「俳優昇格式」では準幹部に推された。
映画『妖婦五人女』(1926年)宣伝用写真から。
左から、栗島すみ子、松井千枝子、川田芳子、筑波雪子(右から2番目)、 柳さく子
『民族の叫び』(1928年)。
右は井上正夫。
1927年(昭和2年)に同じ撮影所の俳優諸口十九との密愛が発覚し、蒲田を退社、独立プロダクション「諸口十九社」を設立した。
二川文太郎を起用して1作を製作、マキノ・プロダクションが配給したが失敗して解散、「諸口十九・筑波雪子一座」を結成、同年12月京都座に出演するも、筑波は諸口との関係を清算して浅草松竹座、京都南座に出演したのが縁で松竹蒲田撮影所に戻った。
筑波雪子さんが誕生してから、118年と164日が経過しました。(43264日)
亡くなってから、47年と168日が経ちました。(17335日)
25929日間 生きました。