藤野秀夫ふじのひでお
俳優[日本]
1878年 5月16日 生
1956年 2月11日 死去享年79歳
藤野 秀夫(ふじの ひでお、1878年5月16日 - 1956年2月11日)は、日本の俳優。
本名:島田 卯平(しまだ うへい)。
新派俳優から映画俳優となり、全盛期の日活向島撮影所では温厚で誰からも愛される正統派の二枚目俳優として活躍し、日活新派の全盛期を築いた。
後に松竹蒲田撮影所専属となってからは脇役・老け役で出演し、俳優陣の長老的存在となった。
亡くなるまでに300本近い作品に出演した。
来歴・人物=
1878年(明治11年)5月16日、東京市京橋区出雲町(現在の東京都中央区銀座8丁目)に生まれる。
少年時代から芝居狂で、旧制中学中退後の1894年(明治27年)、横浜蔦座に出演中の新派の山口定雄一座に入り、初舞台を踏む。
1905年(明治38年)から喜多村緑郎の門下となって各地を巡演し、やがて東京座の舞台で幹部となる。
1915年(大正4年)9月、浅草御国座で井上正夫一座による連鎖劇に出演。
これが映画界入りの最初で、同年公開の『搭上の秘密』(天活製作)が初出演作となった。
翌1916年(大正5年)1月、秋月桂太郎の死去によって、師の喜多村の推薦で大阪・浪花座に代役として出演した後、福井茂兵衛・小織桂一郎らの成美団に加わって九州地方を巡演する。
1917年(大正6年)8月、桝本清の紹介で日活向島撮影所に入社。
同年公開の『白萩』で主演デビューし、二枚目の立ち役として多くの映画に出演。
日活向島のトップスターとして小口忠監督の『七色指環』『不如帰』 ……
藤野秀夫さんが誕生してから、146年と188日が経過しました。(53515日)
亡くなってから、68年と284日が経ちました。(25121日)
28394日間 生きました。