生年月日データベース

朝河貫一あさかわかんいち

歴史学者[日本]

1873年 12月20日

1948年 8月10日 死去享年76歳
朝河貫一 - ウィキペディアより引用

朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。
日本人初のイェール大学教授。
生涯= 福島県二本松市出身。
父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。
1874年(明治7年)、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。
天正寺には朝河が4歳の時に描いた馬の絵が現存する。
1878年(明治11年)、立子山小学校初等科に入学後、初等科首席卒業し、飛び級により同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。
その後、父正澄の赴任に伴い川俣小学校高等科(現福島県伊達郡川俣町立川俣小学校)へ移り、1887年(明治20年)10月、蒲生義一に就いて英学を学び、首席卒業した。
1888年(明治21年)、現在の福島県福島市杉妻町にあった福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)に入学する。
1889年(明治22年)、現在の福島県郡山市に福島県尋常中学校が移転すると、朝河は郡山市の宮本家に下宿し、そこから通学する。
福島県尋常中学校在学中、英国人教師トーマス・エドワード・ハリファックスに教えを受ける。
1892年(明治25年)3月、同校を首席卒業の後、5月から8月まで郡山尋常小学 ……

朝河貫一さんが誕生してから、150年と335日が経過しました。(55123日)
亡くなってから、76年と103日が経ちました。(27862日)
27260日間 生きました。

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