生年月日データベース

平林たい子ひらばやしたいこ

作家[日本]

1905年 10月3日

1972年 2月17日 死去享年68歳
平林たい子 - ウィキペディアより引用

平林 たい子(ひらばやし たいこ、1905年(明治38年)10月3日 - 1972年(昭和47年)2月17日)は、日本の小説家。
本名タイ。
職を転々としながら、同棲、離別、検挙、生活破綻、中国大陸や朝鮮での放浪などを経て、その体験から『嘲る』『施療室にて』を発表。
プロレタリア作家として出発した。
戦後は反共姿勢を強め、晩年は難病に苦しんだが、社会や人生の不条理を逞しい筆致で描いた作品で知られた。
没後日本芸術院賞・恩賜賞を受け、平林たい子文学賞が設定された。
生涯= 現在の長野県諏訪市(旧諏訪郡中洲村)出身。
貧しい農家に生まれ、12歳の頃にロシア文学を読んだことがきっかけで作家になることを決心し、上諏訪町立諏訪高等女学校(現在の長野県諏訪二葉高等学校)に首席で入学。
高女時代に社会主義に関心を持ち始め、同校卒業後に上京して交換手見習いとして働き始め、アナーキスト山本虎三と同棲。
山本の姉を頼って朝鮮に渡るが、1ヶ月で帰国。
関東大震災直後のどさくさの中で検挙され、東京から離れることを条件に釈放される。
結局日本では生活できなかったため山本の兄がいた満州に行き、大連の病院で出産するが、この女児は栄養不足のため、生まれてわずか24日目に死亡した。
不敬罪で投獄された山本を残して帰国し、満州生活を描いた小説『投げすてよ!』執筆。
労農芸術家連盟に属し、その体験に基づく『施療室にて』でプロレタリア作家として認め ……

平林たい子さんが誕生してから、119年と49日が経過しました。(43514日)
亡くなってから、52年と278日が経ちました。(19271日)
24243日間 生きました。

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