河井継之助かわいつぎのすけ
越後長岡藩士、家老[日本]
(諱・秋義、文政10年1月1日生)
1827年 1月27日 生
1868年 10月1日 死去享年42歳
河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。
越後長岡藩牧野家の家臣。
「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている。
諱は秋義(あきよし)。
号は蒼龍窟。
禄高は120石。
妻は「すが」。
戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。
河井家の概要=
河井家の先祖は、近江膳所藩本多氏の家臣だったという説と、蒲原郡河井村出身の地侍という2つの説がある。
本多氏家臣説では膳所藩主の娘が初代越後長岡藩主・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。
そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。
はじめに兄・清左衛門の家系は、その惣領の義左衛門が近習・目付と班を進め大組入りした。
戊辰戦争で銃卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。
弟の忠右衛門は初め祐筆役となり、その後に郡奉行となった。
この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。
継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、宝永4年( ……
河井継之助さんが誕生してから、197年と298日が経過しました。(72252日)
亡くなってから、156年と50日が経ちました。(57029日)
15223日間 生きました。