最上義光もがみよしあき
戦国大名[日本]
(天文15年1月1日生)
(ユリウス暦) 1546年 2月1日 生
1614年 2月26日 死去享年69歳
最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国の大名。
最上氏第11代当主。
出羽山形藩の初代藩主。
南羽州に勢力を広げ、縁戚である伊達輝宗・政宗と争う。
関ヶ原の戦いにおいて東軍につき、慶長出羽合戦にて上杉家の直江兼続を退け、57万石の版図を築いた(『徳川実紀』)。
生涯=
家督相続まで=
天文15年(1546年)1月1日、第10代当主・最上義守と母・小野少将の娘との間に長男として生まれる。
幼名は白寿丸。
永禄3年(1560年)、15歳で元服した。
将軍・足利義輝より偏諱を賜り、義光と名乗った。
同年3月には、寒河江城攻めにて初陣を飾っている。
しかしこの寒河江攻めは失敗に終わり、天文の乱において伊達氏からの独立性を回復して以降、推し進められてきた義守の領土拡張策はここに至って頓挫した。
永禄6年(1563年)、義守・義光父子は上洛して将軍・義輝に拝謁し、この時に義守・義光父子は幕府より御所号で遇されている(『言継卿記』)。
永禄7年(1564年)には義光の妹・義姫(のちの保春院)が伊達輝宗に嫁ぎ、永禄10年(1567年)には長男・梵天丸(後の伊達政宗)を生むが、この婚姻は後々まで両家に大きな影響を与えることとなる。
元亀元年(1570年)頃、義守と義光の間で諍いが生じる。
5月、病床にあった重臣・氏家定直の仲裁で父子は和解する。
翌元亀2年(1571年)8月、義守は出家して「栄林」と号し、義光が家督を相続 ……
亡くなってから、410年と278日が経ちました。(150031日)