八代六郎やしろろくろう
海軍大将、男爵[日本]
(安政7年1月3日生)
1860年 1月25日 生
1930年 6月30日 死去享年71歳
八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1月25日)- 昭和5年(1930年)6月30日)は、明治から大正期の日本の海軍軍人。
政治家。
最終階級は海軍大将。
位階は従二位。
勲等は勲一等。
功級は功三級。
爵位は男爵。
号は城山。
愛知県犬山市出身。
兄は校長や村長、丹羽葉栗郡郡長、衆議院議員を務めた松山義根。
生涯=
万延元年正月三日(墓誌によれば四日)、尾張国丹羽郡楽田村(犬山市)の大庄屋、松山庄七の三男(墓誌によれば二男)として生まれる。
この松山家は、楠木正成一族の家臣の末裔という。
幼名は浦吉。
慶応4年1月下旬から明治4年まで、尾張藩で結成された草莽の義軍である磅磚隊に兄と共に参加し、戊辰戦争に官軍方として参戦。
この間の明治元年(1868年)、9歳で同隊監察方の水戸藩浪士(天狗党)・八代逸平の養子となる。
八代逸平は一人者で重病となったことから、松山義根に養嗣子を頼み、松山は自身の弟六郎に八代家を継がせたのである。
六郎は病床の義父から教えを受け、感化された。
その後、犬山藩の藩校敬道館に入学し、愛知英語学校(旧制愛知一中、現在の愛知県立旭丘高校)を経て上京し、海軍兵学校に入学。
「万が一にも兵学校に入学できなければ侠客になる」と豪語し、公約を果たす。
明治14年(1881年)、兵学校8期を35名中19位で卒業。
首席は航海術と測量術の権威となった今泉利義少将。
8期で大将まで昇進したのは八代のみ ……
八代六郎さんが誕生してから、164年と301日が経過しました。(60202日)
亡くなってから、94年と145日が経ちました。(34479日)
25723日間 生きました。