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足利義教あしかがよしのり

室町幕府第6代将軍[日本]

(「嘉吉の乱」で赤松氏に謀殺される、応永元年6月14日生)

(ユリウス暦) 1394年 7月12日

(ユリウス暦) 1441年 7月12日 死去暗殺享年48歳
足利義教 - ウィキペディアより引用

足利 義教(あしかが よしのり、旧字体:足利 義敎)は、室町幕府の第6代征夷大将軍(在職:1429年 - 1441年)。
第3代将軍・足利義満の子。
母は側室の藤原慶子。
僧侶時代は義円(ぎえん、旧字体:義圓)、還俗直後は義宣(よしのぶ)と名乗った。
室町幕府の第3代将軍・足利義満の四男または五男で、第4代将軍・足利義持の同母弟にあたる。
義教は、鎌倉公方の足利持氏と通謀して自身を呪詛しているとして、比叡山延暦寺に攻勢を仕掛けてこれを抑え込み、永享の乱で足利持氏を敗死させるなど、強権的な手法で室町幕府の地位向上に努めた。
また自身の肝いりの政策として、高さ四丈(約12m)の雲居寺大仏の再建を行った。
将軍と同等もしくはそれ以上の勢威を持った勢力を一掃し、九州や関東にも幕府の影響力を増大させたが、「万人恐怖」とも称される、その強権的な手法は周囲の反感を呼び、最期は守護大名の赤松氏に暗殺された(嘉吉の乱)。
以降足利将軍の権威は低下し、彼ほどの実権を持つ将軍は現れなかった。
義教は従来、恐怖政治を敷いた暴君であると評されてきた。
しかし近年、義教の各種政策は戦国三英傑の先駆として、再評価する機運も見られる。

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