松山英夫まつやまひでお
映画プロデューサー[日本]
1906年 3月27日 生
1986年 4月11日 死去心不全享年81歳
松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 1986年4月11日)は、日本の映画プロデューサー、実業家である。
マキノトーキー製作所企画部長、大映専務取締役、ダイニチ映配取締役社長を歴任した。
和製英語「ゴールデンウィーク」と「シルバーウィーク」の名付け親として知られる。
来歴・人物=
1906年(明治39年)3月27日、愛知県宝飯郡蒲郡町(現在の同県蒲郡市)に生まれる。
1928年(昭和3年)、関西学院を卒業する。
満29歳であった1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに入社して「企画部長」に就任、翌年1936年(昭和11年)1月、同社の陣容を発表した際に名を連ね、同部のメンバーには岡本潤、中川信夫、坂田重則らがいた。
やがて同社は経営が悪化し、1937年(昭和12年)4月に解散することになり、従業員のための退職金は、中川信夫を監督として製作した『旗本五人男 大江戸の鳶』の配給権を松山が東京に行って売却して用立てた。
解散後は、日活に移籍、関西支店宣伝部長に就任した。
1940年(昭和15年)には、日活京都撮影所企画部長に就任した。
1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合により大映が発足し、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、曾我正史所長の下で同撮影所企画部長となる。
第二次世界大戦 ……
松山英夫さんが誕生してから、118年と240日が経過しました。(43340日)
亡くなってから、38年と225日が経ちました。(14105日)
29235日間 生きました。