丸根賛太郎まるねさんたろう
映画監督[日本]
1914年 5月12日 生
1994年 10月10日 死去頸椎がん享年81歳
丸根 賛太郎(まるね さんたろう、1914年5月12日 - 1994年10月10日)は日本の映画監督である。
来栖重兵衛、宮元重兵、韮三哲、宮元四郎と数多くのペンネームを使い分けた。
経歴=
1914年5月12日、山口県下関市に生まれる。
本名は赤祖父富雄。
京都帝国大学在学中より菅沼完二監督の助監督をしていて、その菅沼の紹介で1935年日活京都撮影所に助監督として入社。
大学は中退した。
1939年、『春秋一刀流』で監督昇進。
この映画は戦時中のチャンバラ映画の傑作とされ、山中貞雄の再来と評される。
戦後は『狐の呉れた赤ん坊』『月の出の決闘』などで高い評価を得る。
1959年の『高丸菊丸 疾風篇』が監督として最後で、以後はテレビドラマの脚本を執筆した。
作中で登場人物が目的の場所へ向かう場面で多用される「○○(地名)へ!」という字幕をズームで表記する演出を得意とした。
1994年10月10日、頸椎癌のため死去。
2009年7月27日、チューリップテレビは『越中人譚 日本映画界をリードした富山人~河浦謙一 丸根賛太郎~』を放映し、丸根賛太郎の足跡を紹介した。
丸根賛太郎さんが誕生してから、110年と193日が経過しました。(40371日)
亡くなってから、30年と42日が経ちました。(11000日)
29371日間 生きました。