生年月日データベース

足利義詮あしかがよしあきら

室町幕府第2代将軍[日本]

(元徳2年6月18日生)

(ユリウス暦) 1330年 7月4日

(ユリウス暦) 1367年 12月28日 死去享年38歳
足利義詮 - ウィキペディアより引用

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、室町時代(南北朝時代)の室町幕府第2代征夷大将軍(在任 : 延文3年(1358年)12月8日-貞治6年(1367年)12月7日)。
初代将軍足利尊氏の三男[注釈 1]。
母は鎌倉幕府最後の執権・北条守時の妹で正室・赤橋登子(登子の子としては長男)。
姓名は源義詮である。
父尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した際、幼少ながらも新田義貞の鎌倉攻めに参加。
貞和5年(1349年)に室町幕府で内紛が起こると、鎌倉から上洛し中央政権の政務に関わるようになる。
観応2年(1351年)、尊氏が失脚した直義を追い鎌倉に出陣すると、義詮は京の留守を任せられたが、翌年閏2月南朝によって幕府が支援する北朝の三人の上皇を拉致される。
しかし、同年中には後光厳天皇の擁立に成功する。
延文3年(1358年)4月に尊氏が死去すると家督を継承、同12月には征夷大将軍に就任する。
有力諸将の向背が定まらないなかで、将軍の親裁権の整備、半済令や寺社本所領保護などの政策を進め、その後の室町幕府や足利将軍家の基盤を作った。
貞治6年12月、いまだ幼い嫡男義満の後見を細川頼之に託し38歳で死去した。
生涯= 幼少時から将軍就任まで= 元徳2年(1330年)6月18日に誕生。
父は足利尊氏(当時は高氏)、母は鎌倉幕府の執権であった赤橋守時の妹登子。
幼名は千寿王。
義詮が誕生した時には既に兄が二人いたが、登子が尊氏の正妻であったため、義詮が嫡男にされたと考えら ……

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