生年月日データベース

巌谷一六いわやいちろく

政治家書家[日本]

(天保5年2月8日生)

1834年 3月17日

1905年 8月12日 死去享年72歳
巌谷一六 - ウィキペディアより引用

巖谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日(1834年3月17日) - 明治38年(1905年)7月12日)は、近江国(滋賀県)出身の書家、官僚、漢詩人。
本名は修(しゅう)(幼名は辨治、ついで迂也)、字は誠卿。
特に書家として名高く、一六(一六居士)はその号で、別号に迂堂・古梅・金粟道人などがある。
日本近代児童文学の創始者と評される巖谷小波はその三男。
経歴= 天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。
巌谷家は代々水口藩加藤家の侍医で、姓は正しくは「巖谷」と記す。
ただしもとは「岩谷」で一六の時に字を改めたものである。
父玄通が天保10年(1839年)一六が6歳の時に亡くなり、家督を嗣ぐも幼少のため、しばらくして母利子とともに京都に赴き、同地で医術を三角棣園に、漢籍を皆川西園・家里松嶹に、書を安見氏に学んだ。
幼少より能書で聞こえ版下書をして学費を補った。
安政元年(1854年)水口に戻り立的(りゅうてき)の名で藩医を勤める一方、藩の儒者で藩政改革の指導者であった中村栗園に師事し、「正義党」の一員として当時二分していた藩論を尊王へと導くに奔走した。
この間多くの漢学者や勤王家と交流した。
慶応4年(明治元年・1868年)4月、徴士として新政府に出仕し、総裁局史官試補を振り出しに書記官僚の道を歩み、主に詔勅をはじめとした公文書の起草・浄書に携わった。
三条実美の知遇も得て、枢密権大史、太政官大 ……

巌谷一六さんが誕生してから、190年と248日が経過しました。(69646日)
亡くなってから、119年と101日が経ちました。(43566日)
26080日間 生きました。