中林梧竹なかばやしごちく
書家[日本]
(文政10年4月19日生)
1827年 5月14日 生
1913年 8月4日 死去享年87歳

中林 梧竹(なかばやし ごちく、文政10年4月19日(1827年5月14日)[1] - 大正2年(1913年)8月4日[1])は、日本の書家。
明治の三筆の一人[2]。
名を隆経[3]、通称は彦四郎[3]、字は子達[3]。
号は梧竹[3]、別号に剣閣主人など[3]。
家は代々鍋島藩の支藩小城藩の家臣であった。
来歴=
肥前国小城藩(現在の佐賀県小城市)出身。
幼い時に草場佩川に師事する[2]。
19歳の時に藩命により江戸に留学し[1]、山内香雪、市河米庵の門に入って書を学んだ[3]。
1877年(明治10年)清国の余元眉(よげんび、長崎の清国理事府理事官)から中国の碑版法帖の提供を受け[2]、梧竹の六朝書の研究が始まった。
1882年(明治15年)梧竹は帰国する余元眉とともに清国に渡り[1]、余元眉の師潘存のもとで古碑、拓本の蒐集・研究に没頭する。
1884年(明治17年)帰国し[2]、1891年(明治24年)王羲之の十七帖の臨書を明治天皇に献上した。
80代半ばより、自らの書の歩みの集大成となる『梧竹堂書話』の執筆を始めている。
1913年(大正2年)87歳の生涯を閉じた[2]。
業績=
明治書家にあっては珍しい造形型を追求した独特の書風を確立し、その新書風で書壇への影響力が大きかった。
六朝の書法を探究して、多くの碑拓を請来したため、書というよりもむしろ絵画の味わいがある。
また、水墨画も数多く残している。
同じく「明治の三筆」に数えられる日下部鳴鶴や巖谷一六と比べると、梧竹が手がけた石碑は少なく、現 ……
中林梧竹さんが誕生してから、198年と47日が経過しました。(72367日)
亡くなってから、111年と331日が経ちました。(40874日)
31493日間 生きました。