内藤湖南ないとうこなん
歴史学者・東洋史[日本]
(慶応2年7月18日生)
1866年 8月27日 生
1934年 6月26日 死去享年69歳
内藤 湖南(ないとう こなん、1866年8月27日(慶応2年7月18日) - 1934年(昭和9年)6月26日)は、近代日本の東洋史学者。
名は虎次郎(とらじろう)。
字は炳卿(へいけい)。
湖南は号。
別号に黒頭尊者。
白鳥庫吉と共に戦前を代表する東洋学者であり、戦前の邪馬台国論争、中国における唐宋変革時代区分論争などで学界を二分した。
生涯=
上京まで=
1866年 (慶応年間)陸奥国毛馬内村(現:秋田県鹿角市十和田毛馬内)にて、南部藩士・内藤調一(1832年 - 1908年。
号は十湾)と容子の次男として生まれた。
本名の「虎次郎」は、父の十湾が吉田松陰に心酔していたため、吉田松陰の通称である「寅次郎」から取って命名した。
父・十湾は折衷学派に属していた。
6歳で『大学』をわずか4ヶ月で習得し、7歳で『二十四孝』と四書を習得し、13歳時で『日本外史』を通読し、さらに詩作を始める。
友人や世間の評判も「学問が出来ても決して威張らず、喧嘩など一度もしたことがない。
感心な子どもだ」というものであった。
秋田師範学校に入学後も、一人キリスト教会に通い、宣教師ガルスト・スミス(アメリカ人)につき『万国史』などを勉強した。
1884年(明治17年) 秋田師範学校を4年かかる課程を2年半で卒業して、10代で綴子(つづれこ)小学校の主席訓導(実質的には校長)となる。
ジャーナリスト=
1887年(明治20年)に上京し、大内青巒の仏教雑誌「明教新誌」の編集に携わり、 ……
内藤湖南さんが誕生してから、158年と85日が経過しました。(57795日)
亡くなってから、90年と148日が経ちました。(33021日)
24774日間 生きました。