生年月日データベース

玉川良一たまがわりょういち

俳優声優コメディアン[日本]

1924年 10月15日

1992年 10月14日 死去急性心不全享年69歳
玉川良一 - ウィキペディアより引用

玉川 良一(たまがわ りょういち、本名:新井良雄、1924年〈大正13年〉10月15日 - 1992年〈平成4年〉10月14日)は、日本の元俳優・元声優・元コメディアン・元浪曲師。
群馬県前橋市出身。
景山聖子の父・新井克昌(作家)は甥。
人物と芸風= 7人兄弟の末っ子。
幼少時に他家へ養子に出され、栃木県宇都宮市で育つ。
1940年に17歳で単身上京し、関東節の任侠物で人気絶頂の二代目玉川勝太郎に入門、玉川良太郎の名で住み込み弟子になったが、便所で師匠の十八番『天保水滸伝』(正岡容作)の稽古をしたことを内儀にとがめられ、破門される。
1944年、20歳で応召。
北支戦線を転戦中、余興で披露した浪曲を絶賛され、上官の計らいで演芸慰問部隊に転属される。
同僚には山本薩夫(映画監督)らが居た。
1946年に復員し帰国、1951年から一座を率いてドサ回りの旅を東北地方などで10年続ける。
1955年に再上京。
泉和助の世話で浅草に落ち着き、玉川良一に改名。
浪曲声帯模写で浅草松竹演芸場や日本劇場、国際劇場で人気を博す一方、東けんじと漫才コンビ「Wコント」を結成し、千日前大阪劇場やなんば花月等に出演。
翌年には新宿フランス座で活躍していた三波伸介を大阪に呼び、コント「おとぼけガイズ」を旗揚げ。
これが当って関西ローカルのテレビにも進出したが活動期間は1年弱ほどで、自然消滅に近い状態で1957年頃解散した。
これは活動展開で意見が分かれ玉川のピン芸人とし ……

玉川良一さんが誕生してから、100年と37日が経過しました。(36562日)
亡くなってから、32年と38日が経ちました。(11726日)
24836日間 生きました。

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