生年月日データベース

ヘンリー・小谷へんりーこたに

映画監督[日本→アメリカ]

(本名・小谷倉市)

1887年 4月25日

1972年 4月8日 死去脳卒中享年86歳
ヘンリー・小谷 - ウィキペディアより引用

ヘンリー・小谷(ヘンリー・こたに、1887年4月25日 - 1972年4月8日)は、大正・昭和期の映画監督。
本名・小谷倉市。
日系アメリカ人二世で[出典 1]、日本映画初期に、アメリカから最新技術を紹介、実践し、開拓者・指導者としても大きな役割を果たした[出典 2]。
略歴・人物= 生い立ち= 広島県仁保島村(現広島市南区仁保町)生まれ[出典 3]。
幼少時に家族でアメリカへ渡り、1896年、ハワイ州ホノカアに移住、父の岩吉はそこでホテルを経営した。
1900年以降にサンフランシスコに移住[出典 4]。
1907年、ロイヤル・ハイスクール入学[出典 5]。
同校ではバスケットボールと野球の主力選手として活躍した。
1909年卒業、オークランド・ヒルズ・カレッジに入るが1911年中退。
この間、富士アスレチッククラブで野球やその他のスポーツを続け、1911年4月、早稲田大学アスレチッククラブとも対戦したという。
また最初は俳優を志し[出典 6]、ハイスクール在学中の1907年からサンフランシスコのアルカザー劇場(アルカザールプレイヤーズ劇団)で働き、1915年頃まで役者を続け、日本人や中国人の召使いなど、さまざまな役を演じた。
その後、ハリウッドへ向い、1913年にトーマス・H・インスの撮影所に入り、俳優として『タイフーン』(1914年)などの映画に出演した[出典 7]。
ここには青木鶴子、トーマス・栗原、早川雪洲もいた。
1917年、フェイマス・プレイヤ ……

ヘンリー・小谷さんが誕生してから、138年と20日が経過しました。(50425日)
亡くなってから、53年と38日が経ちました。(19396日)
31029日間 生きました。

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