新藤兼人しんどうかねと
映画監督、脚本家[日本]
1912年 4月22日 生
2012年 5月29日 死去老衰享年101歳
新藤 兼人(しんどう かねと、1912年〈明治45年〉4月22日 - 2012年〈平成24年〉5月29日)は、日本の映画監督、脚本家。
本名は新藤 兼登(読み方同じ)。
近代映画協会会長。
従三位、広島県名誉県民、広島市名誉市民、広島県三原市名誉市民。
日本のインディペンデント映画の先駆者であった。
性のタブーに挑戦したり社会派映画を制作したりと、冒険的な作品を発表した点が、同世代の監督と大きく異なる点である。
『鉄輪(かなわ)』のように前衛的な作品まで制作した。
脚本作品も、約370本と非常に多い。
人物・経歴=
映画界に入るまで=
1912年(明治45年)、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町石内)生まれ。
4人兄弟の末っ子。
広島市内から一山越えた農村で豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで没落した。
田畑を売り、たったひとつ残った蔵で父母と3人で暮らし、石内尋常高等小学校(現在の広島市立石内小学校)へ通う。
当時、長兄は尾道警察署に勤務、姉2人は家が没落したため長姉は花嫁移民として渡米し次姉は広島で看護師になった。
なお生家であるその蔵は1999年まで新藤の生家として保存されていたが取り壊され、当地には「生誕の地」碑が建っている。
1927年(昭和2年)石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられた。
この時代のことは『石内尋常高等小学校 花は散れども』に描かれている
16歳の時に、尾道 ……
新藤兼人さんが誕生してから、112年と213日が経過しました。(41121日)
亡くなってから、12年と176日が経ちました。(4559日)
36562日間 生きました。