荒井郁之助あらいいくのすけ
幕臣、官僚、初代中央気象台長[日本]
(天保7年4月29日生)
1836年 5月26日 生
1909年 7月19日 死去糖尿病享年74歳
荒井 郁之助(あらい いくのすけ、天保7年4月29日(1836年6月12日) - 明治42年(1909年)7月19日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣。
明治期の官僚。
初代中央気象台長。
幼名は幾之助。
諱は顕徳(あきのり)、後に顕理(あきよし)とした。
なお、明治5年(1872年)刊、開拓使版『英和対訳辞書』の序文署名では、自分の名前を郁之助ではなく、「郁」一文字で表わしている。
小惑星(5070) Araiは荒井郁之助に因んで命名された。
略歴=
出生から修養時代=
矢田堀景蔵
東京都渋谷区の祥雲寺に眠る荒井郁ノ助の墓
同寺にある荒井君碑。
篆額は徳川家達が書した。
天保7年4月29日(1836年6月12日)、江戸・湯島天神下上手代町(現在の東京都文京区)の組屋敷に生まれる。
父は幕府御家人で後年に関東郡代付の代官を務めた荒井清兵衛(顕道)で、郁之助は長男。
幼名は「幾之助」で、祖父・荒井清兵衛(顕徳)の幼名にちなむ。
荒井家は幕府の御家人で、代々小普請方を務めている家柄。
郁之助出生時の荒井家には曾祖母・祖父母・2人の叔父(成瀬善四郎・矢田堀景蔵)、一人の叔母が同居する大家族であった。
7歳より隣家に住む六笠弘太郎や叔父の矢田堀景蔵(鴻)を師として漢学・儒学を学び、素読を始める。
8歳で昌平坂学問所勤番組の内山孝太郎に入門し、内山の私宅で素読を行う。
郁之助は素読を嫌い、13歳で素読吟味を済ませたという。
14歳で湯島の昌平坂学問所に入学する。< ……
荒井郁之助さんが誕生してから、188年と178日が経過しました。(68845日)
亡くなってから、115年と125日が経ちました。(42129日)
26716日間 生きました。