生年月日データベース

尾崎放哉おざきほうさい

俳人[日本]

1885年 1月20日

1926年 4月7日 死去享年42歳
尾崎放哉 - ウィキペディアより引用

尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名:尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉、1885年〈明治18年〉1月20日 - 1926年〈大正15年〉4月7日)は、日本の俳人。
『層雲』の荻原井泉水に師事。
種田山頭火らと並び、自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人である。
鳥取県鳥取市出身。
大正15年、4月7日(大学時代の恩師・穂積陳重と同日)に南郷庵で死去。
死因は癒着性肋膜炎合併症、湿性咽喉カタル。
概略= 種田山頭火と並ぶ自由律俳句の雄。
活動の場を荻原井泉水の主宰する『層雲』に求め、僧形に身をやつして、貧窮のうちに病没した点でも共通している。
一高俳句会に属し、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)在学中も『ホトトギス』や『國民新聞』に投句していたが、いずれも定型律で、ほどなく句作からも離れた。
東京帝大卒業後、東洋生命保険(現・朝日生命保険)に就職し、大阪支店次長を務めるなど出世コースを歩んだ。
しかし、同僚からは「石頭の我利ガリ亡者」と陰口を叩かれる(あるいは、そういう被害妄想に苛まれる)など社内では孤立。
そんな頃、一高時代の俳句仲間・荻原井泉水が『層雲』誌上で自由律俳句を提唱。
放哉は「水を渇望して与えられたときのように、井泉水の主張をむさぼり読んだ」。
1915年12月、最初の句が『層雲』に掲載され、翌年からは層雲社例会にも参加。
一方、私生活は跛行を極め、同年、東洋生命保険を退職し、鳥取に帰郷。
1922年、一高 ……

尾崎放哉さんが誕生してから、139年と304日が経過しました。(51074日)
亡くなってから、98年と228日が経ちました。(36023日)
15051日間 生きました。