南牟礼豊蔵みなみむれとよぞう
元プロ野球選手[日本]
1960年 12月9日 生 (満63歳)
南牟礼 豊蔵(みなみむれ とよぞう、1960年12月9日 - )は、宮崎県都城市出身の元プロ野球選手(外野手)。
来歴・人物=
1960年12月9日に宮崎県都城市で生まれる。
「南牟礼」という名字は鹿児島県東部の大隅半島付近を発祥と言われ、鹿児島県大隅町に多いとされる。
全国的には僅か40名ほどしか確認されていないという。
宮崎県立都城工業高等学校では黒原祐二(のちに西武ライオンズ)と同期で、卒業後は電電九州に就職して1980年から2年連続で都市対抗野球大会に出場を果たす。
1981年のドラフト会議で阪急ブレーブスから3巡目で指名されたが、電電九州は他に横浜大洋ホエールズから右田一彦が1巡目、村岡耕一が3巡目で指名されており、同い年かつ同期入社組3名が揃ってプロ入りを果たした。
1983年にプロ初本塁打を放つが、バントの構えからのヒッティングで本塁打となった。
これに対して、当時広島東洋カープからトレードで加入したばかりの水谷実雄から「バスターは転がすもの。
フライを打ってたまたま入った本塁打を喜ぶな」と怒られてしまい、苦い初本塁打となってしまう。
1989年は開幕から先発起用され、4月末の時点で打率.327を記録して打撃成績上位に名を連ねていたが、5月に入ると打撃の調子が下降し、シーズン中盤以降は本西厚博・熊野輝光の起用が増え、次第に試合終盤の途中出場に留まる。
それでも自己最多となる106試合に出場。
1990年には背番号を0へ変更したが、 ……
南牟礼豊蔵さんが誕生してから、63年と347日が経過しました。(23358日)