生年月日データベース

池田光政いけだみつまさ

播磨姫路・備前岡山藩主[日本]

(慶長14年4月4日生)

1609年 5月10日

1682年 6月27日 死去享年74歳
池田光政 - ウィキペディアより引用

池田 光政(いけだ みつまさ)は、武将、大名。
播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩主(池田宗家)。
生涯= 家督相続= 姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男。
生母は2代将軍徳川秀忠の養女(榊原康政娘)・鶴姫。
当時の岡山藩主池田忠継(光政の叔父)が幼少のため、利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた。
慶長16年(1611年)に江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。
同18年(1613年)に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。
同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。
このとき家康は5歳の光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。
早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。
そして脇差を与えたが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。
家康はその態度に笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。
そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという(『#率章録』)。
元和2年(1616年)6月13日に父利隆が死去、翌6月14日に幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の播磨姫路藩主となる。
しかし翌元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に因幡鳥取32万5000石に減転封となった。
鳥取藩主=

池田光政さんが誕生してから、415年と192日が経過しました。(151771日)
亡くなってから、342年と144日が経ちました。(125060日)
26711日間 生きました。