梶原緋佐子かじわらひさこ
日本画家[日本]
1896年 12月22日 生
1988年 1月3日 死去享年93歳
梶原 緋佐子(かじわら ひさこ、1896年(明治29年)12月22日 - 1988年(昭和63年)1月3日)は、京都で活躍した日本画家。
一貫して女性像を手掛け、大正期には貧しい女性たちの風俗画を、昭和期には格調高い美人画を描いた。
本名、久子。
略歴=
大正期=
京都市知恩院古門前町に生まれ、造り酒屋の次女として恵まれた環境に育つ。
京都府立第二高等女学校(現・京都府立朱雀高等学校)に入学し、同校の図画教師を務めていた千種掃雲に画才を認められる。
掃雲は工場労働者や低賃金労働を強いられる人々を主題とする進歩的な日本画家であり、「綺麗に着飾った女がニュッと立ってるなんて、そんなもの何もならない。
ほんまに切ったら血が出るような、そういう女を描くんやったらお前に加担してやる」との条件付きで緋佐子に絵の道を勧めたという。
掃雲の紹介により、1914年(大正3年)同校卒業とともに菊池契月に入門。
1918年(大正7年)第1回国画創作協会展に、一人の仲居が行き暮れて思案する姿を描いた《暮ゆく停留所》を出品して選外佳作となる。
その後は官展に移り、1920年(大正9年)の第2回帝展に初入選、以後は毎年帝展に出品。
いずれも下層に生きる貧しく逞しい女性たちの生活を題材とした、社会性の強い作品であった。
これは古典的なものを好む師・契月の作風よりも、自由主義的風潮を背景とした新世代の傾向と歩をあわせるものだった。
そもそも緋佐子の生家は祇園 ……
梶原緋佐子さんが誕生してから、127年と333日が経過しました。(46720日)
亡くなってから、36年と323日が経ちました。(13472日)
33248日間 生きました。