浅野進治郎あさのしんじろう
俳優[日本]
(旧芸名・浅野信二郎など)
1904年 2月28日 生
没年不詳
浅野 進治郎(あさの しんじろう、1904年2月28日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。
本名同じ。
旧芸名浅野 信二郎、浅野 進二郎、浅野 象二郎(あさの しょうじろう)ほか、表記の揺れがある。
人物・来歴=
東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川地区)に生まれる。
新劇を志し、開校された新国劇付属演劇研究所に第1期生として入所、澤田正二郎(1892年 - 1929年)らの指導を受け、1923年(大正12年)8月に同所を卒業している。
同研究所の同期には草間実、根本淳、第2期生には金平軍之助らがいた。
まもなく関東大震災を経験し、1924年(大正13年)には、水谷竹紫、初代水谷八重子らが同年に設立した第二次芸術座に参加する。
1929年(昭和4年)、日活太秦撮影所に入社、端役で映画界にデビューした。
当初は現代劇に出ており、もっとも古い出演記録は、1931年(昭和6年)2月13日に公開された木村次郎監督のサイレント映画『暁の唄』であり、「浅野 信二郎」と名乗った。
1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、浅野はこれに参加、芸名を「浅野 進二郎」と改める。
準主役級の待遇を受けたが同社は1937年(昭和12年)4月に解散、葉山純之輔、大内弘ら大半の俳優は新興キネマへ移籍したが、浅野はゼーオー・スタヂオや ……
浅野進治郎さんが誕生してから、120年と267日が経過しました。(44097日)