生年月日データベース

青山忠俊あおやまただとし

武蔵国岩槻・上総国大多喜 藩主[日本]

(ユリウス暦) 1578年 3月18日

1643年 6月1日 死去享年66歳
青山忠俊 - ウィキペディアより引用

青山 忠俊(あおやま ただとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
徳川幕府譜代大名。
常陸国江戸崎藩の第2代藩主、武蔵国岩槻藩主、上総国大多喜藩主。
青山家宗家10代。
官位は従五位下・伯耆守。
徳川家光へのたびたびの諫言のため改易となる。
生涯= 天正6年(1578年)、青山忠成の次男として遠江国浜松で誕生した。
小田原征伐で初陣を飾り、兄・忠次の早世により嫡子となる。
父・忠成が徳川家康に仕えていたため、最初は家康に仕え、後に2代将軍・徳川秀忠に仕える。
慶長5年(1600年)より伯耆守を称す。
慶長8年(1603年)に5,000石を与えられる。
慶長12年(1607年)に土井利勝、酒井忠世と共に徳川家光の傅役を務める。
慶長15年(1610年)、5,000石を加増され1万石を領する独立した大名となる。
慶長18年(1613年)には父・忠成の死により、常陸江戸崎藩2代藩主となった。
元和元年(1615年)には本丸老職となる。
元和6年(1620年)5万5,000石をもって岩槻城主となる。
しかし、忠俊はしばしば家光に諫言を繰り返したため、元和9年(1623年)10月19日には、老中を免職の上、上総大多喜藩(2万石)に減転封され、その後寛永2年(1625年)に除封され、下総国網戸・相模国溝郷・遠江小林を経て、相模今泉で蟄居する。
秀忠の死後に再出仕の要請があったが断っており、子の宗俊と宗祐が出仕している(宗俊は後に大名へ復帰)。
寛永20年(1643年)、死去。

亡くなってから、381年と344日が経ちました。(139504日)