稲葉正則いなばまさのり
相模小田原藩主[日本]
(元和9年6月2日生)
1623年 6月29日 生
1696年 7月4日 死去享年74歳
稲葉 正則(いなば まさのり)は、江戸時代前期から中期の譜代大名、老中、大政参与。
相模小田原藩第2代藩主。
初代藩主稲葉正勝の次男で、母は山田重利の娘。
正成系稲葉家宗家3代。
生涯=
元和9年(1623年)、江戸幕府老中・稲葉正勝の次男として誕生。
母の早世により祖母・春日局に養育されたが、寛永11年(1634年)に父が死去したため家督を相続、相模小田原藩2代藩主となる。
幼少のため減封の可能性もあったが、3代将軍徳川家光の配慮で所領安堵・継承が許され、大伯父(春日局の兄)・斎藤利宗の補佐を受けた。
寛永15年(1638年)に元服、以後は父方の従兄・堀田正盛が後見人を務めた。
前後して家光の命令による正則と譜代・外様大名の縁組も行われ、寛永12年(1635年)に長門長府藩主毛利秀元の娘と結婚、同年に春日局と正盛の息子堀田正俊との養子縁組も結ばれ稲葉氏と堀田氏の結びつきを強めた。
寛永20年(1643年)に春日局が亡くなった後も家光は両家および酒井氏を結ぶ命令を出し、正則の娘と正俊との縁組および正則の妹と酒井忠能の縁組を取り決め稲葉氏と堀田氏は重縁の間柄となった。
父の出世で成長した稲葉氏の家臣団形成・統制に取り組み家臣の増員および職制の整備を行い、正則が老中の就任で定府してからは江戸屋敷で政策立案・小田原藩の家老が藩政を代行する制度が整えられた。
かたや藩は寛永10年(1633年)の小田原地震の復興で小田原城の城下町整備や ……
稲葉正則さんが誕生してから、401年と143日が経過しました。(146608日)
亡くなってから、328年と137日が経ちました。(119939日)
26669日間 生きました。