山地元治やまじもとはる
土佐藩士、陸軍中将、子爵[日本]
(天保12年7月25日生)
1841年 9月10日 生
1897年 10月3日 死去享年57歳
山地 元治(やまじ もとはる、やまち もとはる天保12年7月25日(1841年9月10日) - 明治30年(1897年)10月3日)は、明治期の日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍中将・従二位・勲一等・功三級・子爵。
幼名・忠七。
来歴=
土佐藩士(馬廻役・150石)山地元恒と母沖菊子の長男として、高知城下小高坂越前町に生まれる。
本姓は橘氏で楠木正成の後裔という。
その孫の楠木正儀から四代の元弘が山地と名乗り讃岐国に住んだ。
その子孫の松之進が長宗我部元親に仕えて土佐香美郡山田村に住み、次代市右衛門が山内一豊に召し出され藩士となった。
初名は熊太郎、次に貞之助、元服後に忠七と名乗る。
藩主の小姓役、足軽隊長を経て、慶応3年(1867年)から歩兵小隊司令をつとめる。
鳥羽・伏見の戦いでは独断で新政府に与して幕府側を攻撃し、戊辰戦争では迅衝隊七番隊長、胡蝶隊長として東北各地を転戦した。
明治元年(1868年)には大隊長となり、翌年、戦功によって賞典禄150石を授けられた。
明治4年(1871年)、御親兵として上京して陸軍中佐に昇任した。
征韓論争では、板垣や後藤象二郎ら土佐藩出身とともに下野する。
帰郷した後は、板垣等とともに自由民権運動に挺身しようと盟約を結んだものの、今後の方針を巡って板垣と対立(※詳細は板垣清女項に記載)をした結果、陸軍に復帰した。
近衛6番大隊長等を経て、明治8年(1875年)、歩兵第4連隊長に就任。
明治10年(1877年)3月 ……
山地元治さんが誕生してから、184年と116日が経過しました。(67322日)
亡くなってから、128年と93日が経ちました。(46845日)
20477日間 生きました。
