生年月日データベース

立見尚文たつみなおふみ

桑名藩士陸軍大将、男爵[日本]

(弘化2年7月19日生)

1845年 8月21日

1907年 3月6日 死去享年63歳
立見尚文 - ウィキペディアより引用

立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ、1845年8月21日(弘化2年7月19日) - 1907年(明治40年)3月6日)は、幕末の桑名藩士、日本陸軍の軍人。
最終階級は陸軍大将。
男爵。
通称は鑑三郎。
号は快堂。
変名に倉田巴。
経歴= 桑名藩士時代= 実父は桑名藩士(江戸詰め、200石)の町田伝太夫。
桑名藩士・立見尚志の養子となった。
松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。
少年期より風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られる。
藩校立教館、湯島の昌平坂学問所に学ぶ。
藩主松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を任される。
その後幕府陸軍に出向。
歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。
フランス教官をして「立見は天成の軍人である。
ナポレオンの頃フランスに生まれていたら恐らく30になる前に将軍になっていただろう」と感嘆せしめたという。
徳川慶喜謹慎後も藩内においては実兄・町田武須計らと共に抗戦を主張し、鳥羽・伏見の戦いにおいて大敗を喫した桑名藩の軍制を立て直す。
その後、土方歳三と連繋し宇都宮城の戦いで武功を上げる。
桑名藩領の柏崎へ移ってからは実績を買われて投票で雷神隊の隊長に選抜され、続く鯨波戦争・北越戦争ではゲリラ戦を展開して官軍を度々苦しめた。
特に北越戦争における朝日山の戦闘では、奇兵隊参謀時山直八を討ち取る殊勲を挙げる。
その後会津若松城に赴き、城下の戦いで敗 ……

立見尚文さんが誕生してから、179年と91日が経過しました。(65471日)
亡くなってから、117年と261日が経ちました。(42995日)
22476日間 生きました。

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