生年月日データベース

三益愛子みますあいこ

女優[日本]

1910年 11月2日

1982年 1月18日 死去膵臓がん享年73歳
三益愛子 - ウィキペディアより引用

三益 愛子(みます あいこ、1910年(明治43年)11月2日 - 1982年(昭和57年)1月18日)は、日本の女優。
戦後、母物映画で一世を風靡し、「母物映画女優」と呼ばれた。
本名:川口 愛子(かわぐち あいこ)、旧姓:乾(いぬい)。
大阪府大阪市南区南炭屋町(現・中央区)の生まれ。
夫は直木賞作家の川口松太郎。
川口との間には三男一女があり、俳優の川口浩は長男にあたる。
宝塚歌劇団24期生の紀川瑠璃子は実妹にあたる。
来歴・人物= 1927年(昭和2年)に大阪府立阿倍野高等女学校を中退し、大阪の劇団『新潮劇』に加入。
水町晴子の芸名で初舞台を踏んだ。
曾我廼家五九郎一座などへの出演を経て 1929年(昭和4年)に上京。
1932年(昭和7年)には松竹専属となった榎本健一の劇団『ピエル・ブリヤント』に入りエノケンの相手役をつとめた。
翌年には、古川緑波もいた松竹傘下の喜劇集団『笑いの王国』に招かれ、芸名を三益愛子に変えて看板女優となった。
1934年(昭和9年)には太秦発声映画で映画初出演し、その翌年に東宝に入った。
戦前は舞台だけでなく、映画でもコメディエンヌとして活動した。
1936年(昭和11年)に長男の浩を出産、当時は浩の父親である川口松太郎に妻子があったため、1951年(昭和26年)まで入籍しなかった。
1942年(昭和17年)には芸能界を引退して家庭に入るものの、松太郎の勧めで1947年(昭和22年)に芸能界に復帰した。
同年12月、松太郎が大映の ……

三益愛子さんが誕生してから、114年と19日が経過しました。(41658日)
亡くなってから、42年と307日が経ちました。(15648日)
26010日間 生きました。

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