楠木正虎くすのきまさとら
書家[日本]
(永正17年生)
1520年 生
1596年 2月9日 死去享年77歳
楠木 正虎(くすのき まさとら)は、戦国時代から安土桃山時代の武士、世尊寺流の書道家。
法名は長譜(ちょうあん)と名乗った。
式部卿法印、従四位上・河内守。
子に楠木正辰。
足利義輝、松永久秀、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。
生涯=
大饗氏の出。
生国は備前。
のち、伊勢国神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)に住したという(『梶川系図』)。
はじめは通称を大饗長左衛門(甚四郎)。
『尊卑分脈』所収『橘氏系図』によれば、楠木正成の孫・楠木正秀の子という河内大饗氏の大饗正盛の子孫・大饗隆成の子。
織田家、豊臣家の右筆(書記官)を担当した。
正虎は、書を飯尾常房に学んだといわれる(飯尾常房は文明17年(1485年)に没しているので、実際にはその弟子筋の人物に学んだと推測される)。
世尊寺流の当代一流の書家であった。
織田信長が羽柴秀吉の妻である高台院に出した古文書があり、これは昭和初期まで信長の直筆とされてきたが、右筆の正虎が書いたものであることが明らかとなった。
正虎は楠木正成の子孫と称したが、正成ら楠木氏が朝敵とされていたために楠木姓を名乗れず、朝廷にその赦免を嘆願した。
これには松永久秀による朝廷への取り成しや、将軍・足利義輝の了解もあった。
永禄2年(1559年)11月20日、正虎は正親町天皇より、正成ら楠木氏を赦免する綸旨を受けて、晴れて楠木姓を公言できるようになった(『旧讃岐高松藩士楠氏家蔵 ……
亡くなってから、428年と283日が経ちました。(156610日)