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出浦昌相いでうらまさすけ

戦国武将、天文15年生[日本]

1546年

1623年 9月12日 死去享年78歳

出浦 盛清(いでうら もりきよ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
真田氏の家臣。
実名は昌相(まさすけ)。
幸久(ゆきひさ)・頼幸(よりゆき)とも伝わるが誤伝である。
信濃国更級郡の上平城主(出浦城主)や、上野国岩櫃城代などを務めた。
江戸時代後期に松代藩の家老を務めた河原綱徳が記した『本藩名士小伝』の記載に甲州透破(三ツ者・甲州忍者)の棟梁とあり、忍者として知られるが、後述の忍城攻めにおける活躍を「忍」と誤伝された可能性が指摘されている。
生涯= 天文15年(1546年)、信濃埴科郡出浦にて、清和源氏・信濃村上氏の一族である出浦清種の次男として誕生したとされる。
天文22年(1553年)に村上義清が武田信玄に敗れ越後国に逃れると、その後甲斐武田氏に臣従し、甲州透破(三ツ者)を統率した。
武田氏滅亡後は織田信長家臣の森長可に属し、本能寺の変の後、長可が海津城から撤退を図った際には、長可配下の信濃国人はほぼ全員が長可を裏切ったが、昌相は撤退に協力した。
長可は深く感謝し、別れる際に脇差を与えたという。
その後、天正11年(1583年)から真田昌幸・信之に仕え、小県郡武石村に30貫文を領し、吾妻奉行を拝命した。
更級郡上平城主を務め、岩櫃城では最後の城代を務めている。
横谷左近と共に吾妻忍び衆を統率して活躍。
天正18年(1590年)6月、豊臣秀吉の関東平定では真田軍として北条方が守る忍城攻め(忍城の ……

亡くなってから、401年と69日が経ちました。(146534日)

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