脇坂安董わきさかやすただ
播磨龍野藩主、老中[日本]
(明和4年6月5日生)
1767年 6月30日 生
1841年 4月15日 死去享年74歳
脇坂 安董(わきさか やすただ) は、江戸時代中期から後期にかけての大名・寺社奉行・老中。
播磨国龍野藩8代藩主。
官位は従四位下中務大輔、侍従。
龍野藩脇坂家10代。
生涯=
明和4年(1767年)、7代藩主・脇坂安親の次男として誕生。
兄・安教が早世したため嫡子となる。
天明4年(1784年)、父の隠居により家督を相続した。
寺社奉行を都合2度、さらには老中を務めた。
脇坂氏は元外様大名であり、願い譜代に直してもらった家柄ではあったが、外様の家系は幕府の重要な役職には就けないのが慣例であった。
しかし安董は弁舌が爽やかで、押し出しも良く男ぶりも良かったといわれ、これが11代将軍・徳川家斉の目にとまり、異例のことながら寛政3年(1791年)に寺社奉行に登用された。
この間、安董は谷中延命院一件、三業惑乱の両事件を裁いている。
谷中延命院一件=
「谷中延命院一件」は、大奥女中を巻き込んだ女犯スキャンダル事件である。
当時の延命院住持は日潤といい、歌舞伎役者初代尾上菊五郎の隠し子だと言われるが、異説もある。
この日潤が多数の大奥女中と密通しているという噂が飛び、享和3年(1803年)、安董は女密偵を使って慎重に内偵を進め、5月26日みずから延命院に踏み込んで日潤ら破戒坊主を検挙、日潤は7月29日に死刑に処された。
安董はこれで一気に名を馳せた。
三業惑乱=
「三業惑乱」は、西本願寺の教義をめぐる争論である。
幕府当局は各 ……
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