板倉勝宣いたくらかつのぶ
登山家[日本]
1897年 2月12日 生
1923年 1月17日 死去遭難享年27歳
板倉 勝宣(いたくら かつのぶ、1897年2月12日 - 1923年1月17日)は、東京出身の登山家。
日本登山界草創期に活躍、山岳地におけるスキー利用の先駆者にもなった。
概要=
1897年(明治30年)2月12日、備中松山藩最後の藩主板倉勝弼(前年10月に死去)の七男(庶子)として生まれる。
学習院高等科を卒業して北海道帝国大学に入学、大学時代にはスキー部に所属した。
1922年に佐幌岳にスキー登山、大雪山系の旭岳に初登頂したほか、槍ヶ岳北鎌尾根を松方三郎らと登攀、新聞には初登頂(実際の初登頂はウォルター・ウェストン)と報道され、新進気鋭の登山家として知られるところとなった。
また、同じ頃に新進気鋭の登山家が集まっていることで知られた慶應義塾大学山岳部と交遊を持ち、1922年8月にドイツに向かう鹿子木員信(慶応山岳部初代部長)の壮行を兼ねて、鹿子木や同部の精鋭である槇有恒・三田幸夫・大島亮吉・早川種三らと共に穂高連峰の岩登り合宿に参加している。
最後の山行=
1923年1月、立山(雄山)へ槇有恒、三田幸夫(2人とも後に日本山岳会会長に就任する)らとスキー登山を敢行した。
立山温泉から、室堂を越えて登頂を目指すが、天候が悪化し断念した。
帰路(1月17日)、一帯が猛吹雪となり槇、三田は立山温泉へたどり着けたものの、板倉は立山カルデラの縁にあたる松尾峠付近で低体温症により遭難死した。
冬季の立山は、前年に雄山に初登頂が記録されたばかりで知 ……
板倉勝宣さんが誕生してから、127年と281日が経過しました。(46668日)
亡くなってから、101年と309日が経ちました。(37199日)
9469日間 生きました。