生年月日データベース

村野藤吾むらのとうご

建築家[日本]

1891年 5月15日

1984年 11月26日 死去享年94歳
村野藤吾 - ウィキペディアより引用

村野 藤吾(むらの とうご、1891年(明治25年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日)は、日本の建築家。
日本建築家協会会長、イギリス王立建築学会名誉会員、アメリカ建築家協会名誉会員。
略歴= 佐賀県東松浦郡満島村(現・唐津市)で代々船問屋を営む家の一男第三子として生まれた。
生後すぐから12歳頃まで乳母の元に預けられ、その後両親の住む福岡県遠賀郡八幡村(北九州市八幡東区 )で育った。
1910年、小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。
1911年から2年間にわたる従軍中、学問に興味を持ち、東京京橋の石材屋に弟と下宿する。
1913年、早稲田大学大学部理工科電気工学科に入学。
しかし、自分には向かないと考え、1915年、同大建築学科へ転学。
27歳で卒業した。
1918年、渡辺節建築事務所に入所。
日本興業銀行本店、ダイビル本館、綿業会館等の設計に携わった。
渡辺からは、建築に費用を惜しまないことが客を呼び、ひいては施主の利益になることを叩き込まれる。
1929年、渡辺節建築事務所を退所し、村野建築事務所開設。
日中戦争・第二次世界大戦中は実作の機会は少なく、不遇の時期を過ごすも経済学に関心を深め、戦時中からカール・マルクスの資本論を愛読するようになった。
1949年、村野・森建築事務所に改称。
1955年、日本芸術院会員。
1967年、文化勲章受章。
日本芸術院賞、日本建築学会賞など受賞多数。
1955年完成の ……

村野藤吾さんが誕生してから、133年と258日が経過しました。(48836日)
亡くなってから、40年と63日が経ちました。(14673日)
34163日間 生きました。

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