生年月日データベース

二条晴良にじょうはるよし

公卿[日本]

(大永6年4月16日生)

(ユリウス暦) 1526年 5月27日

(ユリウス暦) 1579年 5月29日 死去享年54歳
二条晴良 - ウィキペディアより引用

二条 晴良(にじょう はるよし/はれよし)は、戦国時代・安土桃山時代の公卿。
二条家の14代当主。
浄明珠院と号す。
生涯= 前半生= 大永6年(1526年)4月16日、 二条尹房の長男として誕生。
母は九条尚経の長女・経子。
天文5年(1536年)9月22日、正五位下に叙せられて元服し、家の慣例により、室町幕府の第12代将軍・足利義晴から偏諱を賜い、晴良と名乗る。
その後、左大臣を経て、天文17年(1548年)12月27日に関白・藤氏長者となったが、同22年(1553年)1月20日にこれを辞任した。
天文20年(1551年)8月、晴良の父・尹房と弟・良豊が下向先の周防山口において、大内義隆の重臣・陶晴賢の謀反事件(大寧寺の変)に遭遇し、横死した。
晴良の祖父・尚基も零落によって死去しており、二条家は当主が2代続けて悲壮な死を迎えたことで、さらに悲惨な状況に追いやられた。
他方、近衛家は近衛政家、尚通、稙家の3代にわたって、足利将軍家と友好な関係を築いてその地位を固めており、二条家とは対照的であった。
足利義昭への接近= 永禄8年(1565年)5月19日、第13代将軍・足利義輝が京都において、三好義継や三好三人衆、松永久通らによって殺害された(永禄の変)。
足利義晴・義輝父子の時代、近衛家がその外戚的存在として彼らを支持して、彼らが京都を追われた時期においてもこれに随行していた一方で、二条家や九条家は足利義維・義栄父子を支持して、石山本願寺(大坂本願寺)と ……