鍋島直茂なべしまなおしげ
戦国武将、肥前佐賀藩祖[日本]
(天文7年3月13日生)
(ユリウス暦) 1538年 4月12日 生
1618年 7月24日 死去享年81歳
鍋島 直茂(なべしま なおしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
戦国大名・龍造寺隆信の義弟である。
肥前佐賀藩の藩祖。
なお数回改名しており、本項では便宜的に後期の名乗りである直茂で統一して解説する。
生涯=
龍造寺隆信の右腕として=
天文7年(1538年)、鍋島清房の次男として生まれる。
母は龍造寺家純の娘・桃源院。
天文10年(1541年)、主君・龍造寺家兼の命令により、小城郡の千葉胤連(西千葉氏)の養子となる。
しかし天文14年(1545年)に少弐氏によって龍造寺家純らが殺され、家兼が逃亡したことにより、龍造寺氏と少弐氏が敵対関係になると、実父・清房は直茂の養子縁組を解消して実家に戻らせている。
家兼の死後、数年を経て龍造寺隆信が龍造寺氏を継ぎ、さらに隆信の生母である慶誾尼が父・清房の継室となったため、直茂は隆信の従弟(直茂の生母と隆信の父が兄妹。
もしくは姉弟)であると同時に義弟にもなり、隆信から厚い信任を受けることとなる。
龍造寺氏は直茂の働きなどもあって、宿敵の少弐氏を永禄2年(1559年)には滅亡に追いやっている。
鍋島杏葉
永禄12年(1569年)、大友宗麟が侵攻して来ると、隆信に籠城を進言し、同時に安芸毛利氏に大友領への侵攻を要請した。
元亀元年(1570年)の今山の戦いでは、家中が籠城に傾く中で夜襲を進言し、夜襲隊を指揮して大友親貞を撃破する。
以降、龍造寺家内での存在感を大いに ……
亡くなってから、406年と130日が経ちました。(148422日)