鈴木鼓村すずきこそん
箏曲家・京極流の創始者、日本画家[日本]
1875年 9月9日 生
明治8年9月9日、宮城県亘理郡小堤村 (現・亘理町) 生まれ。幼い頃に祖母から八橋流の箏曲の手ほどきを受ける。13歳で東京の叔父・鈴木周三の養子となるが、養父と折り合わず出奔。いったん帰郷するが実父は厳格であったため頑として拒まれて家に入れてもらえず、そのまま東京に戻り、牛乳配達や花簪の内職などをして糊口をしのいだ。のち養父と和解し成城中学に入るが、間もなく中退して陸軍教導団に入隊、特に剣道を得意とした。明治24年仙台歩兵第四連隊に配属。軍務の傍ら山下国義に箏曲を学ぶ。25年陸軍戸山学校に転じ、剣道を教えるとともに永井建子に洋楽を、ディットリヒにバイオリンを、高野茂に生田流箏曲を師事。27年日清戦争に従軍、遼東、旅順、山東半島、威海衛を転戦する間に、師・永井が作曲した軍歌「道は六百八十里」を現代に歌い継がれている行進曲風の形に編曲し、これが内地でもヒットした。戦後、除隊して鼓村と号し、独学で教員免許を取得して福井中学や京都府立第二中学などで教師を務める。しかし、勇猛快活な性格で大声を発しながら琴を弾くなど奇行が多く、生徒からは不評であったという。33年教職を辞してからは箏曲家として立ち、古典の復興に力を注ぐ一方、薄田泣菫、湯浅半月、高安月郊らと交流して近代詩を歌詞とした新箏曲を提唱し、34年には月郊の作詞による「静」を発表した。同年国風音楽会を結成。37年作曲の「紅梅」(詞・薄田)は皇后にも気に入られ、以後、たびたび御前演奏をする栄誉に浴した。また童謡を琴の曲として作曲する箏曲童謡“童曲”の先駆でもあり、38年泣菫の詩に曲をつけた「雁とつばめ」を発表。40年国風音楽会を京極流と改称。同年上京して与謝野寛・晶子夫妻、泉鏡花、蒲原有明らと親交を結び、箏曲のみならず舞楽、雅楽、平曲などを含めた広範な音楽活動を進めるとともに、絵画や文筆、劇作などにも活動の幅を広げた。大正2年美術評論家・岩村透の知遇を得、その薦めにより「美術週報」の主筆となり、絵画評論で健筆を振るった。7年京都に隠棲し、那智俊宣を名乗って大和絵古土佐に専念。箏曲も続け、各地を演奏旅行した。その巨体と奇行によって異端視されたが、日本音楽の有職故実に詳しく、日本音楽史の歴史的記述の先駆者でもあった。他の作曲作品に「厳島詣」「大原女」「花売女」「待ち心」「雁と燕」「比叡の山から」「野路の菊」「おもひで」など、戯曲に「帰農」「応天門」「羅生門」「木曽殿最後」など、著書に「日本音楽の話」「耳の趣味」「日本音楽の聴き方」などがある。名は、卯作。別名義に、鈴木映雄・那智俊宣・穂積朝臣。