関孝二せきこうじ
映画監督[日本]
1911年 9月20日 生
1911年(明治44年)9月20日、東京府東京市浅草区雷門 (現在の東京都台東区)に生まれる。建築業を営む父をもつ。1930年(昭和5年)3月、郁文館中学校(旧制、現在の郁文館中学校・高等学校)を卒業、同年4月、東京美術学校(旧制、現在の東京芸術大学美術学部)に入学するも、1年次で中途退学した。 1937年(昭和12年)、父が新興キネマ東京撮影所(のち大映に統合して現存せず、場所は現在の東映東京撮影所)の大道具主任になり、それに従って同社に入社、大道具副主任となる。のちに演出部に異動し、同撮影所で曽根純三、青山三郎、久松静児、鈴木重吉らの作品で助監督を務めている。1942年(昭和17年)1月10日、同社が他社と合併して大映となってからは、鈴木重吉とともに北京に渡り、華北電影公司に入社している。1945年(昭和20年)、第二次世界大戦の終結を迎えて、日本に帰国した。 1947年(昭和22年)、同じ新興キネマ東京撮影所出身の今村貞雄とともに、ラジオ映画という企業を設立する。当初は貸しスタジオとして経営していたが、実製作を開始、同社の製作部長である伊賀山正徳監督の『海魔陸を行く』を製作する。同社は、1953年(昭和28年)ごろには活動を停止、同年1月、南方映画社をテレビ映画と商号変更、ラジオ映画を吸収合併した。同社の設立第1回作品は、佐藤武監督の『嘘』で、新東宝が配給し、1954年(昭和29年)10月12日に公開された。 1955年(昭和30年)8月9日には、今村とともに富士映画で製作した丸根賛太郎監督の『天下の若君漫遊記 前篇 変幻出没の巻・後篇 活殺自在の巻』が日活の配給によって、公開されている。1957年(昭和32年)9月8日には、新日本映画で製作した佐藤武監督の『鷹狩と小熊哀話』が、新東宝の配給で公開されている。その後、日本放送映画を設立、テレビ映画(フィルム撮影によるテレビドラマやドキュメンタリー)を手がけた。 1962年(昭和37年)、国映で成人映画『情欲の谷間』を監督、以降、成人映画を量産する。翌1963年(昭和38年)10月、『情欲の洞窟』のロケーション撮影を記者に取材させたことが、ジャンルの名称としての「ピンク映画」、同ジャンルの作品を生み出す製作会社を指す「エロダクション」等の新語がこの取材から生まれた。 2007年(平成19年)5月21日に発売された雑誌『映画秘宝』(2007年7月号、洋泉社)が、関に対して当時最新のインタヴューが行われた記事を掲載、健在を証明した。 2012年(平成24年)5月現在、関の監督作のうち、『ヒップで勝負』(1965年)、『売女(ばいた)』(1967年)、『変態魔』(同)、『好色番外地』(1967年)、『秘密クラブの女』(1969年)、『セックスパトロン』(1970年)、『痴漢ドライバー』(1978年)、『痴漢 奥まで覗く』(1985年)の8作、関が製作に関わった佐藤武監督の『鷹と仔熊とわんぱく小僧』(1957年)、吉岡昌和監督の『毛剃り魔』(1989年)の2作の上映用プリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されている。(参照元・Wikiwand)